地球に優しいとは

木虹メルヘン

木虹メルヘン


「どんなに空気を汚そうとも、ごみを捨てようとも地球は存在する。」
 「地球が誕生した時は酸素も無く、汚い空気に覆われ、優しくなかったというのか。」
「どんなに我が人類が大地や空気に手を加えようとも、地球の立場からすればちょっと外面がかわったねで済んでしまうだけの事でしょうか。」
 こんな事を考えると、こういう言葉は「むしずがはしる」「いいこちゃんぶっている」などと称される事となる事は十分理解できると考える。
 地球に優しいという言葉は人の都合によって生まれたものなのだろう。
人の都合であるから色々と解釈する事ができる。
 「大気中の二酸化炭素が増え、このままで行くと今いる生物、人類の存在が脅かされるので二酸化炭素の排出量を抑え、地球に優しい社会を築き上げなければいけない。」
 「地球に優しいという言葉の響きそのものが社会貢献をしている、役に立っている、アピールポイントになる、商売に直結している。」
 上記のような事は人の都合によって生まれたものである。地球そのものは変わらない。地球の上に暮らす生き物が影響をうけるだけだ。そしてその言葉が人々の中で一人歩きをし「地球に優しい」といういいようにも悪いようにも解釈されるようになったのであろう。
私はそれでいいと思う。地球に優しいと称してがっぽりと金儲けに走ろうとも、地球に優しいといいつつも実は空気を汚す事をなにげなくやってしまっていようとも、地球に優しくといわんばかりに一生懸命清掃登山に日々奔走しようとも。
 動機は不純であれ、社会貢献をしたという自己満足であれ、この言葉の存在自体に意義があるとおもし、存在しなければ混沌とした世間の荒波の中で、自分の都合だけが蔓延る社会が続く事になり、そういうことが続くと人類画滅亡するのもそう長くないということになる。
 「皆さん、有史以来築き上げてきた人類の営みが、ぷっつりととだえてしまってもいいですか?」
 ここに掲げた「地球に優しい」というカテゴリは固定概念を意味しているのではない。どうにでも解釈されるものであってほしいと考える。解釈は自由である。優しいという言葉自体がそういうことなのだから。

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